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「彼女はまあ、仕事はよく出来る女性で……、しかし……」ピーターはそれから言い淀んで、しばらく間を置いてから言った。「社内の評判はあまりよくない」
「というと?」
アーサーが促すと、彼は考え込んでから慎重に話し始めた。
「いや、確かに仕事は正確で迅速で申し分ない。だが、いつも冷静沈着な顔をして、笑ったところを見たことがない、いや、僕だけじゃない。みんなそう言う。化粧をせず、いつも地味な服を着ていて、仕事に関係する以外の話は誰ともしないし、冗談や軽口の類は澄ました顔で受け流す。ついたあだ名が「石の女」だ。例え美人でも、あれではだれも寄り付かない。秘書としては優秀なんだが、女性としてはね……。もっとも」
ピーターはにやりと笑った。
「君は女嫌いなんだから、その方がいいだろう? お色気むんむんの秘書よりは」
確かにそうだ、とアーサーは軽く調子を合わせ、礼を言ってピーターと別れた。そして、歩きながら考えた。確かに、色仕掛けで男に言い寄ってくるような女ではないのだろう。だが、きっと、能力こそが全てという信条を持ち、自信満々で自分より劣った人間を鼻で笑うような女に違いない。アーサーは心の中で呟いた。
――そんな女も大嫌いだ――
エドワードの妻、マグダは、大学の博士課程を修了して教育学と児童心理学の2つの博士号を持っている才女だが、彼女に関して言えば、ただ単に研究熱心というだけで、人を見下すこともしないし、男よりも抜きん出でやろうという野心は全く持っていない。それが証拠に、あれだけの学歴を持ちながら、結婚したとたん、専業主婦になり、家事と子育てに専念している(最も、家事の方は優秀な使用人がいるからやることはほとんど無いのだが)。だが、ピーターの話を聞く限り、ミス・ラングドンという女性がマグダのような女性であるとは考えにくい。
――傲慢、冷淡、高飛車――
考えれば考えるほど気分が重くなるのをアーサーは感じた。半年我慢できればいいだろうか。そして、その後配置換えをしよう。と彼は心に決めた。
いくらジョーが株のほとんどを保有している大株主で社長だといっても、彼の鶴の一声で社長が変わることについては少なからず社内から反発が出るはずだと思っていたアーサーは完全に肩透かしをくらった。臨時株主総会が開催され、20人ほど集まった株主の間でアーサーが社長に就任することについて、一切異論が出ないまま、和気藹々と総会は短時間で終了し、その後の重役や役員たちとの会談も、実に和やかな雰囲気で終始した。名誉職に近い役員はさておき、重役の中には会社の創設期からジョーと一緒に仕事をしてきた叩きあげの人物も数人いたが、誰も、アーサーが社長になることについて異議ありと声をあげる者はいなかったし、逆にジー以上にアーサーを歓迎していた。
「この厳しい国内情勢、国際情勢を考えるとね」と、そのうちの1人レスター・クアークはにこにこ顔で言った。「これからもこの会社を維持するには若い人間に任さないとダメだと思うんだ。君なら申し分ない。若い、そして有能だ。多分他の誰よりもね」
アーサーは、ジョーが会社経営者にしては度を越してお人よしなのは知っていたが、まさか、会社の重役たち全員がお人よしだとは思ってもいなかった。この会社、よく今まで潰れもせず、乗っ取られもしなかったな、とほとんど驚愕に近い感動を覚えるほどだ。
「正式に社長に就任するのは9月27日ということで……」
ジョーが手帳を捲りながら言った。
「その前の金曜日、24日の午後に最後の引継ぎをしよう。そのとき秘書にも会わせるよ」
「わかりました」
アーサーは秘書に関してはもう、何の関心もなかった。どういう女性であれ、ジョーに配置換えの相談が出来るまで(多分半年位だろうか)きちんと仕事さえしてくれればいい。仕事の面に関しては、ジョーとピーターの折り紙つきだから大丈夫だろう。
24日、アーサーはジョーと待ち合わせて、会社に近いレストランで一緒に食事をし、それから2人でATHOMES本社ビルに向かった。
「さあ、月曜日からここが君の仕事場だ」
ジョーはそういって社長室と書かれたドアを開けた。ドアの先は小さな部屋で、左手にキッチンへ通じるドア、正面におそらく本当の社長室に通じるドア、そして、右手に事務机があり、そこに艶やかな薄茶色の髪をきっちり結い上げている女性が座っていてパソコンの画面を見ていたが、彼らが入っていくと彼女はクイ、と顔を持ち上げた。
「……」
きつい眼鏡の奥の、ガラス細工のような美しいグレイの瞳が目に飛び込んできてアーサーは一瞬固まった。何かが胸に突き刺さったような気がして、彼は初めて感じるこの感覚の正体を見極めようとしたが、今はそんな状況ではなさそうだった。
「エレイン、アーサー・ファリントンを紹介しよう」
ジョーの言葉で、彼女は弾かれたように立ち上がり、アーサーの前に立った。女性にしては背が高い方だが、長身のアーサーと比べると、まだ頭半分くらい低い。
「エレイン、こちらが来週から新しい社長になる、アーサー・ファリントン。アーサー、こちらが秘書のエレイン・ラングドンだ。月曜日から君の秘書になる」
「はじめまして」
ミス・ラングドンは心持ち蒼ざめた顔で手を差し出した。アーサーは「はじめまして」と言いながらその手をゆっくりと握った。とても細くてしなやかで、そして冷たい手だった。その冷たい手は、グレイの瞳と同じようにアーサーの胸に何かを残した。
ジョーとピーターの言った通り、確かにミス・ラングドンは仕事が出来た。会社全体の日程をきちんと把握していて、スケジュール管理は完璧だし、あまり重要ではない手紙やメールへの返事を代わりに書かせても、もしかしたらアーサー自身が書くよりも的確かもしれないというものを書く。要求した資料は驚くべき速さで探し出し、きっちりそろえて提出する。その他、来客への対応も、朗らかさに欠けるとはいえ礼儀正しく、彼女の美貌も相まって、客のほとんどは彼女に賞賛の眼差しを贈って帰っていく。社長に就任して1週間で、アーサーは彼女を秘書として使わないのは宝の持ち腐れだと言ったジョーの言葉は正しかったと認めざるを得なかった。そして、自分がミス・ラングドンに対して持っていた先入観は間違いかもしれないとも思いはじめてきた。
彼女のことを「石の女」と言ったピーターの言葉はそれはそれで正しかった。とにかく彼女は笑わない。流石に来客に対しては控えめに微笑むが、アーサーにはその程度の笑みでさえ向けたことがない。いや、笑わないばかりではない。アーサーは未だに彼女の顔に感情というものを見たことがなかった。いつも仮面のような取り澄ました顔をして、アーサーの指示を聞き、仕事の報告をし、書類を提出する。アーサーは自分が無愛想な人間だと言うことを棚に置いて、こんな愛想のない女は見たことがない、と思った。だが、彼女は彼が予想していた女とは若干違っていた。奇妙な事に、彼女に感じるのは高慢でも冷淡でもなく、怖れと悲しみなのだ。何を怖れていて、何を悲しんでいるのか、アーサーにはまるでわからなかったが、仕事がスムーズにはかどる限りはそんなことを詮索する必要は全くなく、彼は仕事に集中した。そして、仕事に集中できると言うことは、ミス・ラングドンが自分にとっては全く気に障らない女性だからだということに気がついた。少なくとも、その点に関しては嬉しい誤算だった。
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ATHOMESの会社を引き受けることを決心した時、アーサーはM&Aを行なうためのコンサルタント会社を設立した。それまで、アーサーは1人でこの仕事をやってきたとはいえ、誰の手も借りなかったわけではない。企業を買収するのに必要な専門家は個人的な伝で探し出し、仕事を依頼してきたが、今回、彼がATHOMESの社長に就任するに当たって、それらの優秀な人材を引き抜いて会社を作り、M&Aに関する業務はその会社に任せることにしたのだ。もっとも100%アーサーが出資して作った会社なので、基本的に最終的な判断はアーサーが下すことにしているが、それ以外はスタッフに自由裁量で動いてもらうことにした。
彼がATHOMESの社長に就任した時には、そのコンサルタント会社も活動を開始していたが、どうしても情報管理のプロが不足しているということになり、アーサーは社長に就任して2週間後、ある程度仕事が軌道に乗ったのを見計らって、以前から交流のあったフーゴ・ラッツェルを引き抜くべく、ドイツに向かった。
中国の故事でいうところの三顧の礼ではなかったが、固辞するフーゴを何とか説得して引き抜くことに成功し、アーサーは予定を早めて帰国の途に着いた。国際空港に着いたのが午後4時。事前にモーリスに連絡しておいたので、彼が空港ビルから外に出るとそこには彼の車が止まっており、その横にスーツ姿のモーリスが立って待っていた。
「お帰りなさい」
モーリスは人懐こい笑顔をアーサーに向けた。彼はアーサーからスーツケースを受け取りながら言った。
「ご自分で運転されますか?それとも私がしましょうか?」
「君が運転してくれ」
とアーサーが言うと、モーリスはさっと助手席側に周り、ドアを開けてアーサーを助手席に乗せ、ドアを閉めると自分は運転席側に回り乗り込んだ。
「帰宅ラッシュの時間帯にかかってしまいましたが、どうしましょう。会社に行かれますか?それとも自宅に帰られますか?」
モーリスに尋ねられてアーサーは時計を見た。
「会社に行ってくれ。終業時間には間に合うだろう。確認したい事案もあるし。すまないが、会社に車を置いたら、君はタクシーで帰ってくれないか?」
「畏まりました」
モーリスは厳かに頷いた。彼はマーサの甥で、ちょうどアーサーが廃屋同然になっていた母の実家を買い取った頃高校を卒業し、就職先の当てもないと言う話を聞いて、庭師兼運転手として雇った青年だ。昨今の若者にしては珍しいくらい素直で純朴で、彼はアーサーのことをこの地球上で一番尊敬していた。
「叔母がぼやいてましたよ」
車を運転しながらモーリスは言った。
「会社に入ったんだからもっと仕事の量は減るはずなのに、何でこんなに毎日帰りが遅いんだって」
アーサーは何も言わず、ただクスクスと笑った。アーサーの仕事についてはマーサはほとんどと言っていいほど何も知らない。彼女は彼は社長になったんだから、以前の仕事とは縁を切ったものだと思っているらしい。一度、自分がどんな仕事しているのか、マーサに逐一説明してやろうか、と一瞬思ったが、思っただけで疲れたので溜息をついて彼は言った。
「今日は出来るだけ早く帰るといっておいてくれ」
「畏まりました」
モーリスはまた頷いた。
会社に着いたのはほとんど終業時間間際だったが、まだ終業時間にはなっていない。ミス・ラングドンはいるはずだ、と思いながら、アーサーは社長室へ急いだ。社長室へと向かう廊下を歩いていると、微かに笑い声が聞こえてきた。女性の声だ。どの部屋からだろうと思って社長室の前に立つと、目の前のドアの向こうから聞こえてくるのがわかった。
――誰が笑ってるんだ?――
アーサーはそっとドアを開け、5センチくらいの隙間から中を覗いた。すると、秘書の机の前にジョーの甥、ルーカス・メイソンが座っていて、その前に声をあげて笑っている女性がいた。笑っているので一瞬それが誰だかわからなかったが、それが秘書のミス・ラングドンだと気がつくと、自分の目を疑った。
――ミス・ラングドンが笑ってる……?――
笑っている彼女の顔はとても美しかった。無表情な時でも美しいが、彼女が笑うと、周りの空気までが輝いて見える。その笑顔は今、ルーカスに向けられていて、2人の間には確かに親密さがあった。アーサーの心の中に、その楽しげな雰囲気をぶち壊したい衝動が沸き起こった。
「鬼の居ぬ間に命の洗濯かい?終業時間まで、まだあと5分あるが……?」
彼の声は、彼自身でもわかるくらいに意地悪だった。
アーサーが家に着いたのは午後6時だった。普段よりかなり早い時間に帰宅した彼を、マーサは満足げに迎えた。
「お夕食は7時半でよろしいですか?」
「ああ」
「その前にお茶をお持ちしましょうか?」
「いや、コーヒーがいいな。書斎に持ってきてくれ。夕食までに少し仕事をする」
「かしこまりました。あ、お留守の間に来た手紙は、書斎の机の上に置いておきましたよ」
「わかった」
マーサがキッチンのドアへ消えると、アーサーはいったん2階の寝室に向かい、そこでスーツを脱いでラフな服に着替えると、手と顔を洗って書斎に下りて行った。机の前の大きな椅子に体を沈めて、コンサルタント会社のことを考えようと思ったが、その前に何故だか秘書のエレイン・ラングドンのことが頭に浮かんだ。ピーターの話によると、彼だけではなく、ほとんどの会社の人間が彼女を「石の女」だと思っているらしかった。ところが、今日垣間見た彼女の笑顔はとても「石の女」の笑顔とは思えない。あれは表面的な作り笑いなどではなくて心からのものだった。
――ということは、つまり……――
社内の中でも、ルーカスだけは特別ということだ。
――なるほどね――
ミス・ラングドンとルーカスは多分将来を約束しあった仲か、それに近い関係にあるのだろう。決まった相手がいるのなら、あれだけの美人だ。ほかの男に言い寄られないために、無愛想な態度をとるのは賢明というものだ。
納得したところでアーサーはミス・ラングドンのことを頭から振り払い、机の上に置かれた手紙の束を手にした。見たところ、どれも急を要するものではないらしい、が、彼は最後の一通に目を留めた。真っ白い上質の封筒には手書きで彼の名前が記されている。差出人を見るとレイラ・ファーガソンの名前があった。
――そうか、もうそんな時期か――
封を開けてみると、案の定、それは彼女の誕生パーティーへの招待状だった。レイラ・ファーガソンは、アーサーの父親の4人目の妻、ルシリアの母親だ。ルシリアはアーサーより3歳年下だが、彼の義理の母親には違いなく、ということは、彼女の母親であるミセス・ファーガソンはアーサーにとって義理の祖母ということになるのだろうか。アーサーも彼女も、お互いを祖母と孫の関係だと思ったことは一度もないが、アーサーの父親、ロドニーがルシリアと別居状態になり、ほとんど音信不通になった5年前から、ミセス・ファーガソンはロドニーの名代として自分の誕生パーティーにアーサーを招待するようになった。そして、毎年彼はその招待を受けている。ミセス・ファーガソンはどちらかと言えば勝気で我が強く、一筋縄ではいかない性格の女性だが、アーサーは彼女のことが嫌いではなかった。むしろ、彼女が男性以上に合理的な思考を持ち合わせていることに好感を持ってる。 彼女の誕生日は10月15日、今年は金曜日にあたってた。確かその日の夜は会社の親睦会の一環としてダンスパーティーがあると回覧が回ってきたが、アーサーはミセス・ファーガソンの誕生パーティーを優先させることにし、出席の返事を書くために便箋を取り出した。
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