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 ATHOMESの会社を引き受けることを決心した時、アーサーはM&Aを行なうためのコンサルタント会社を設立した。それまで、アーサーは1人でこの仕事をやってきたとはいえ、誰の手も借りなかったわけではない。企業を買収するのに必要な専門家は個人的な伝で探し出し、仕事を依頼してきたが、今回、彼がATHOMESの社長に就任するに当たって、それらの優秀な人材を引き抜いて会社を作り、M&Aに関する業務はその会社に任せることにしたのだ。もっとも100%アーサーが出資して作った会社なので、基本的に最終的な判断はアーサーが下すことにしているが、それ以外はスタッフに自由裁量で動いてもらうことにした。
 彼がATHOMESの社長に就任した時には、そのコンサルタント会社も活動を開始していたが、どうしても情報管理のプロが不足しているということになり、アーサーは社長に就任して2週間後、ある程度仕事が軌道に乗ったのを見計らって、以前から交流のあったフーゴ・ラッツェルを引き抜くべく、ドイツに向かった。
 中国の故事でいうところの三顧の礼ではなかったが、固辞するフーゴを何とか説得して引き抜くことに成功し、アーサーは予定を早めて帰国の途に着いた。国際空港に着いたのが午後4時。事前にモーリスに連絡しておいたので、彼が空港ビルから外に出るとそこには彼の車が止まっており、その横にスーツ姿のモーリスが立って待っていた。
「お帰りなさい」
モーリスは人懐こい笑顔をアーサーに向けた。彼はアーサーからスーツケースを受け取りながら言った。
「ご自分で運転されますか?それとも私がしましょうか?」
「君が運転してくれ」
とアーサーが言うと、モーリスはさっと助手席側に周り、ドアを開けてアーサーを助手席に乗せ、ドアを閉めると自分は運転席側に回り乗り込んだ。
「帰宅ラッシュの時間帯にかかってしまいましたが、どうしましょう。会社に行かれますか?それとも自宅に帰られますか?」
モーリスに尋ねられてアーサーは時計を見た。
「会社に行ってくれ。終業時間には間に合うだろう。確認したい事案もあるし。すまないが、会社に車を置いたら、君はタクシーで帰ってくれないか?」
「畏まりました」
モーリスは厳かに頷いた。彼はマーサの甥で、ちょうどアーサーが廃屋同然になっていた母の実家を買い取った頃高校を卒業し、就職先の当てもないと言う話を聞いて、庭師兼運転手として雇った青年だ。昨今の若者にしては珍しいくらい素直で純朴で、彼はアーサーのことをこの地球上で一番尊敬していた。
「叔母がぼやいてましたよ」
車を運転しながらモーリスは言った。
「会社に入ったんだからもっと仕事の量は減るはずなのに、何でこんなに毎日帰りが遅いんだって」
アーサーは何も言わず、ただクスクスと笑った。アーサーの仕事についてはマーサはほとんどと言っていいほど何も知らない。彼女は彼は社長になったんだから、以前の仕事とは縁を切ったものだと思っているらしい。一度、自分がどんな仕事しているのか、マーサに逐一説明してやろうか、と一瞬思ったが、思っただけで疲れたので溜息をついて彼は言った。
「今日は出来るだけ早く帰るといっておいてくれ」
「畏まりました」
モーリスはまた頷いた。

 会社に着いたのはほとんど終業時間間際だったが、まだ終業時間にはなっていない。ミス・ラングドンはいるはずだ、と思いながら、アーサーは社長室へ急いだ。社長室へと向かう廊下を歩いていると、微かに笑い声が聞こえてきた。女性の声だ。どの部屋からだろうと思って社長室の前に立つと、目の前のドアの向こうから聞こえてくるのがわかった。
――誰が笑ってるんだ?――
アーサーはそっとドアを開け、5センチくらいの隙間から中を覗いた。すると、秘書の机の前にジョーの甥、ルーカス・メイソンが座っていて、その前に声をあげて笑っている女性がいた。笑っているので一瞬それが誰だかわからなかったが、それが秘書のミス・ラングドンだと気がつくと、自分の目を疑った。
――ミス・ラングドンが笑ってる……?――
笑っている彼女の顔はとても美しかった。無表情な時でも美しいが、彼女が笑うと、周りの空気までが輝いて見える。その笑顔は今、ルーカスに向けられていて、2人の間には確かに親密さがあった。アーサーの心の中に、その楽しげな雰囲気をぶち壊したい衝動が沸き起こった。
「鬼の居ぬ間に命の洗濯かい?終業時間まで、まだあと5分あるが……?」
彼の声は、彼自身でもわかるくらいに意地悪だった。

 アーサーが家に着いたのは午後6時だった。普段よりかなり早い時間に帰宅した彼を、マーサは満足げに迎えた。
「お夕食は7時半でよろしいですか?」
「ああ」
「その前にお茶をお持ちしましょうか?」
「いや、コーヒーがいいな。書斎に持ってきてくれ。夕食までに少し仕事をする」
「かしこまりました。あ、お留守の間に来た手紙は、書斎の机の上に置いておきましたよ」
「わかった」
マーサがキッチンのドアへ消えると、アーサーはいったん2階の寝室に向かい、そこでスーツを脱いでラフな服に着替えると、手と顔を洗って書斎に下りて行った。机の前の大きな椅子に体を沈めて、コンサルタント会社のことを考えようと思ったが、その前に何故だか秘書のエレイン・ラングドンのことが頭に浮かんだ。ピーターの話によると、彼だけではなく、ほとんどの会社の人間が彼女を「石の女」だと思っているらしかった。ところが、今日垣間見た彼女の笑顔はとても「石の女」の笑顔とは思えない。あれは表面的な作り笑いなどではなくて心からのものだった。
――ということは、つまり……――
社内の中でも、ルーカスだけは特別ということだ。
――なるほどね――
ミス・ラングドンとルーカスは多分将来を約束しあった仲か、それに近い関係にあるのだろう。決まった相手がいるのなら、あれだけの美人だ。ほかの男に言い寄られないために、無愛想な態度をとるのは賢明というものだ。
 納得したところでアーサーはミス・ラングドンのことを頭から振り払い、机の上に置かれた手紙の束を手にした。見たところ、どれも急を要するものではないらしい、が、彼は最後の一通に目を留めた。真っ白い上質の封筒には手書きで彼の名前が記されている。差出人を見るとレイラ・ファーガソンの名前があった。
――そうか、もうそんな時期か――
封を開けてみると、案の定、それは彼女の誕生パーティーへの招待状だった。レイラ・ファーガソンは、アーサーの父親の4人目の妻、ルシリアの母親だ。ルシリアはアーサーより3歳年下だが、彼の義理の母親には違いなく、ということは、彼女の母親であるミセス・ファーガソンはアーサーにとって義理の祖母ということになるのだろうか。アーサーも彼女も、お互いを祖母と孫の関係だと思ったことは一度もないが、アーサーの父親、ロドニーがルシリアと別居状態になり、ほとんど音信不通になった5年前から、ミセス・ファーガソンはロドニーの名代として自分の誕生パーティーにアーサーを招待するようになった。そして、毎年彼はその招待を受けている。ミセス・ファーガソンはどちらかと言えば勝気で我が強く、一筋縄ではいかない性格の女性だが、アーサーは彼女のことが嫌いではなかった。むしろ、彼女が男性以上に合理的な思考を持ち合わせていることに好感を持ってる。 彼女の誕生日は10月15日、今年は金曜日にあたってた。確かその日の夜は会社の親睦会の一環としてダンスパーティーがあると回覧が回ってきたが、アーサーはミセス・ファーガソンの誕生パーティーを優先させることにし、出席の返事を書くために便箋を取り出した。

次へ
 

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 次の日の午前中、北部の中核都市、アテリアで進めている住宅地造成についての報告書を読んでいると、秘書室が騒がしくなってきた。はっきりと内容は聞こえないが、ミス・ラングドンが誰かを押しとどめているようだ。アーサーは苛立たしげに報告書を机の上に置くと、立ち上がり、ドアを開けた。
「いったい何事だ」
そう言った瞬間、アーサーはアビゲイルに飛びつかれた。不意打ちだった。飛びつかれたことだけではない、彼女がここにいること自体、アーサーには信じられなかった。
「これは……、アビゲイル。どうしてここに?」
「社長になったって聞いて様子を見に来たのよ。だってあなた、全然家にきてくれないんだもの」
いや、聞きたいのはそこじゃない、とアーサーは心の中で呻いた。ATHOMESは大企業、とまではいかないが、シティの中心部に本社ビルを構えているそれなりの会社だ。社長室に入るためには二重、三重のチェックが入るはずなのに、いったい予告もなしにどうしてここまで辿り付けたのか……。本来なら、1階の受付で面会を申し入れないといけないはずなのだが……。アーサーはとりあえずアビゲイルを社長室の中に入れ、怖い顔をして彼女をにらんでいるミス・ラングドンにコーヒーを頼むと自分も部屋の中に入ってドアを閉めた。
「なかなかいい部屋じゃない」
勧められる前にソファに座ったアビゲイルは部屋の中を見回して言った。
「どうして、ここまで来れたんだ? 本来なら、受付でタグを貰わないと、会社内のドアも開けられないはずなんだ」
アビゲイルは自分の正面のソファに座ったアーサーに向かって身を乗り出して言った。
「それがね、私が受付を通り過ぎようとした時、ちょうどケネス・ブラウンと会って、彼にここまで連れてきてもらったのよ。彼、あなたの会社に勤めてたのね」
「ケネス…ブラウン……。確かにこの会社の営業部長だが、彼はまさか……」
「そう、私のお店のお得意様よ」アビゲイルはにっこりと微笑んだ。「彼と一緒だったからかしら、受付を通さなくても、この階までスムーズに来れたわよ」
アーサーは右手で顎をいじりながら、心の中では両手で頭を抱え込んだ。――この会社はセキュリティー面でシステムと社員の認識のレベルの両方で問題がある。後で施設管理部門と警備部門の責任者を呼んで検討しなければ……。――
「で、今日来たのはただのご機嫌伺いのためじゃあるまい?」
アビゲイルはアーサーが毛嫌いするタイプの女性とは少し違う。だが、彼にとって非常に厄介な女性だ。用事があるのならさっさと終わらせてしまいたいという思いでアーサーは話を促した。
「ええ、そうなの。実はあなたにお願いがあって……。是非、引き受けてほしいの」
アビゲイルは自分の目的を達成するためならどんな女にも変身できるという、ある種の特技をもっている。彼女は今、手を組み、微かにうるんだ目を大きく見開いて、しおらしい、けなげな女性を演じている。
「話を聞かない事には……」
「ううん」アビゲイルはかわいらしく首を横に振った。「そんな難しいことじゃないのよ。あなたなら簡単なこと。ねえ、お願い。引き受けるって言って」
「だから、いったい何をなんだ」
「んー」
アビゲイルはアーサーから視線をそらすと、壁に掛った時計を見た。
「もうすぐお昼ね。ランチでも食べながらお話ししましょう。私、ラテリアに行きたいわ」
「ラテリア?」アーサーは眉を顰めた。「あそこは当日の予約は入れられないぞ」
「でも、あなたならなんとができるでしょう?」
「いや、無理だ」
アーサーが突っぱねると、アビゲイルはむっとした表情になったが、すぐにそれがずるがしこい小悪魔的な表情に変わった。
「私、あなたの義理の妹になるかもしれないのよ? そんなに邪険にしていいの? コーデリアは素直な娘だから、私が一言言えば……」
「わかった、なんとかしよう」
アーサーはアビゲイルに屈する形で彼女のセリフを遮った。ちょうどその時、ミス・ラングドンがコーヒーを持ってやってきた。アーサーはコーヒーを置いて立ち去ろうとする彼女に、幾ばくかの罪悪感を抱きながら言った。
「悪いが、ラテリエに2人分の席を予約してくれ。12時だ」

 アーサーにはミス・ラングドンがどんな魔法を使ったのかわからなかったが、とにかく12時5分過ぎには、彼とアビゲイルはラテリエのテーブルについていた。
「で、頼みごととは?」
一刻も無駄にしたくなかったアーサーは料理と飲み物を注文し終わると、直ぐに切り出した。
「実は私のクラブにねえ」ラテリエに連れてきてもらったことで満足したアビゲイルは話を引き延ばす必要もなくなったのか、すらすらと喋りはじめた。
「とっても歌の上手い娘がいるの。彼女をなんとがメジャーデビューさせたいんだけど、どのレコード会社もほとんど門前払い状態で……」
アビゲイルはシティの繁華街にあるクラブを経営している。以前はただ酒を出すだけの店だったが、最近では多少歌が歌えたり楽器が演奏できる若者を雇ってライブを始めたらしい。アーサーはアビゲイルの“頼みごと”の内容が見えてきて、安堵すると同時に腹も立ってきた。
「そんなことは僕の管轄外だ。ニコラスに頼めばいいだろう?」
「ニコラスぅ?」
アビゲイルは鼻で笑った。
「あんな弱小プロダクションに何ができるっていうの?彼に紹介してもらえるのはせいぜい3流レコード会社よ。もっとメジャーな、FNJとか、バレーカンパー二ーとかじゃないと、レコード出したって売れないじゃない!」
「そんなに歌が上手くて、売れると確信しているのなら、どこかの有名プロダクションに入れればいいだろう?定期的にオーディションはしてるだろうし、飛込みでも曲を持っていけば聞いてもらえる」
「何言ってるの? それって、彼女を手離すってことじゃない。いい? 私はあの娘をダウンタウンのストリートライブで見つけて以来、今までずっと大事に大事に育ててきたのよ。みすみす他の人にとられてたまりますか」
――つまり、その女の子の稼いだ金を、がっぽり自分のものにしたいんだな――
アーサーは心の中でため息を吐いた。アビゲイルは以前、テリーが画廊を開く時に関係した画商の娘で、初めて会った時から一筋縄ではいかない女だという印象を持ったが、しかしてそれは見事に当たっていた。とにかく金に関して貪欲で、色恋沙汰は二の次。というか、利用できると踏んだ男はとことんまで利用し尽くすということを信条としているらしい。
「あなたなら顔も広いし、何とかならない?」
アビゲイルは組んだ手の上に顎を載せて、にっこりと微笑んだ。
アーサーは頭の中を引っ掻き回して、音楽関係に顔の利く友人、あるいは知り合いを探した。アビゲイル以外の人間にこんな頼みごとをされたら、「断る」の一言で済ますはずのアーサーが、何とか彼女の要求にこたえようとするのには訳があった。アーサーの弟の一人、テリーがアビゲイルの妹のコーデリアにぞっこん参っているのだ。学生時代から遊びまわっていたテリーは女性の扱いには慣れているはずだが、本当に好きになった女性となると話は違うらしく、知り合ってから1年以上たっても、まだその思いを告白していないらしい。実際、コーデリアは姉のアビゲイルとは似ても似つかぬほど純真で優しい女性で、しかも父親のお気に入りの箱入り娘とあって、今まで男性と付き合ったことがないらしい。そんな二人は傍からみているぶんには微笑ましい限りだが、不幸なのはそこにアビゲイルが絡んでくることだった。テリーのコーデリアに対する気持ち、そしてアーサーが兄弟思いであるということを知っているアビゲイルは、ことあるごとにそれを脅しの種として使う。「コーデリアがテリーを受け入れるかどうかは私次第なのよ」と、言って憚らない。
「学生時代の友人に、テレビ局のディレクターをしているやつがいる。彼に連絡を取って、いいレコード会社を紹介してくれるように頼んでみる」
アーサーが言うとアビゲイルと満面の笑みを浮かべた。
「まあ、やっぱりあなたは頼りになるわ」
「ただし、条件がある。今後一切、会社に来るな。もし来たら、この話ご破算にさせるぞ」
アビゲイルは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに薄ら笑いを浮かべて頷いた。
「わかったわ。約束する。でもねえ、アーサー。四六時中あんな地味で冴えない秘書と一緒にいるのは気が滅入るんじゃない? たまには私みたいな華やかな女性が来た方が気分も変わっていいと思うけど」
彼女の言葉にアーサーは内心ムカっときたが、それを表に出さずに冷静に言った。
「仕事ができれば姿かたちは問題ない。今のままで十分だ。だから絶対にもう来るなよ」

 買い物がしたいというアビゲイルをシティで一番大きなデパートの前で降ろしてアーサーは会社に戻った。
 社長室のドアを開けると、真剣な顔をしてパソコンの画面を見つめているミス・ラングドンの姿が目に飛び込んできた。仕事に没頭している彼女は、アーサーが静かにドアを開けたこともあって、彼が戻ってきたことに全く気が付いていない。アーサーは暫くその場にとどまってミス・ラングドンを見つめた。相変わらず化粧気がないが、肌は白くきめ細やかで、大きなグレイの瞳と形のいい鼻のバランスは完璧だ。きれいに弧を描く眉は物憂げに中心に少し寄っている。アーサーはつくづくと彼女は美しい、と思った。そして奇妙なことに、彼女のその姿はとても孤独に見えた。
「おかえりなさい」
アーサーがミス・ラングドンの机の前に立つと、彼女は顔を上げてアーサーの顔を見つめた。彼女の澄みきったグレイの瞳はアーサーの罪悪感を呼び覚ました。
「さっきは無理をさせてすまなかった」
気が付くと、アーサーはそう口走って、ミス・ラングドンに謝っていた。

次へ

 ミセス・ファーガソンンの家、つまり、ルシリアの実家はシティーの郊外から更に少し離れたデルという町にある。アーサーはその日ばかりは残業をせずに家に帰り、マーサが用意していたスコーンと紅茶で一息ついてから、タキシードに着替えて家を出た。ミセス・ファーガソンの開くパーティーは近頃では珍しいくらい格式ばっていて、もちろん強制されているわけではないが、男性はタキシードを着ていくことが慣例となっている。
 ミセス・ファーガソンの屋敷は町の中心部から少し離れた丘の上にあり、柘植の生垣でぐるりと囲まれた広大な芝生の広場の真ん中に建っている。数年前に建築されたアメリカ風の現代的な建物だ。玄関の横はテラスになっていて、その奥の大きくて開放的な窓には赤々と明かりが灯り、部屋の中には既にかなりの人数が集まっていることが見て取れた。アーサーは玄関近くの広場に止まっている数台の車の端の方に車を止めると玄関へ向かった。
「アーサー!いらっしゃい!」
アーサーが来たことを窓から見ていて知ったのか、彼が呼び鈴を押すより前に扉が開き、オリアナが彼に向かって突進してきた。
「オリアナ・元気だったかい?」
アーサーはオリアナをがっちり受け止めると高く持ち上げた。ベージュのブラウスに茶色のスカートを着たアリアナは少女らしい嬌声を上げてアーサーの首にしがみついた。
「会えてうれしい!ねえねえ、私、今晩はここに泊まるけど、明日アーサーの家に泊まりに行っていい?」
アーサーはオリアナを床におろしながら、明日と明後日の予定が何かあったかどうか、思い出そうとしていたが、その間に玄関ホールにシルバーグレイのロングドレスを着たルシリアがやって来て言った。
「オリアナ。アーサーはお仕事が忙しいのよ」
「いや、特に何もないよ」アーサーはオリアナに向かって言った「じゃあ、明日の朝、迎えに来るよ。それから明日は一日、君の好きなところに連れて行ってあげよう」
「やったー!じゃあ、どこに行きたいか、今夜のうちに考えとくね」
オリアナは文字通り飛び跳ねながら客間に戻っていった。
「本当にいいの?」ルシリアが近づいてきて言った。「マーサの話では、あなたは明けても暮れても仕事ばっかりしてるってことだったけど」
「最近はそうでもないんだ。会社の方も大分勝手がつかめたし、コンサルタント会社の方も僕がいなくても上手く回ってるらしい。本当に明日と明後日は何の予定もないし、そろそろ一息つきたいと思っていたところだ」
「ああ、会社経営を引き継いだんだったわね。でも、せっかくの休日を、オリアナに潰されるのは嫌じゃない?」
ルシリアは眉を顰めて聞いてきた。法律上は彼女とアーサーは親子だが、実際はアーサーの方が3歳年上だ。ルシリアは自立心旺盛で率直でさばさばした性格なので、アーサーは彼女とはウマが合った。彼にとってルシリアは数少ない女友達のうちの一人とも言える。
「潰されるなんてとんでもない。僕はオリアナが大好きだからね。彼女と一緒に一日を過ごせるのはとても嬉しい」
アーサーは正直な胸の内を語った。実際、オリアナは生まれたときからアーサーの大のお気に入りだった。あまり可愛がり過ぎてルシリアから何度も釘を刺されるほどだった。「早く結婚して、自分の娘を持ちなさい」と。
「あのね、だから早く」
ルシリアの口が皮肉っぽく歪むのを見て、アーサーは先手を打って次のセリフを制した。
「わかってる。目下、鋭意努力しているところだ。さあ、もう皆集まってるんだろう?中に入ろう」
アーサーはルシリアの背中を押して客間へ向かった。ルシリアはアーサーと並んで歩きながら「嘘ばっかり」と呟いた。

 農業資材を扱う会社を経営していたミセス・ファーガソンの夫は7年前に他界しており、会社経営はルシリアの兄、ドナルドが引きついている。ミセス・ファーガソンの誕生を祝うディナーパーティーはミセスの家族、親せき、親しい友人たち総勢15名が招待されて厳かに行われた。
――食事に関してはゆっくり味わって食べられるんだ――
アーサーはファーガソン家の自慢のコックが腕によりをかけて作った料理を堪能しながら、隣の席のドナルドと最近の経済情勢について意見を交わし、ルシリアとドナルドの妻オードリーが最近の住宅事情について愚痴をこぼすのに耳を傾けた。ところが、食事が終わり、オリアナとドナルドの子供たちがルシリアに促されてしぶしぶ子供部屋に入り、場所を移して客間に集まった大人たちにブランデーやウィスキーが振る舞われ始めると、アーサーの隣にミセス・ファーガソンがささっとやってきた。彼女は堂々とした体躯をパープルの華やかなロングドレスで包み込み、淡褐色の瞳は獲物を見つけた虎のようにらんらんと輝いている。この場合の獲物とは自分のことだと、アーサーは瞬時に理解した。
――ほら来た――
毎年のことなので覚悟はしていたが、実際に彼女がアーサーの隣の椅子に座ると百戦錬磨のアーサーでも思わず緊張してしまう。
「アーサー。あの表六はいったいどこにいるの?」
前置きなし、単刀直入でミセスは言った。表六というのは誰のことだかわかっていたが、敢えて彼は分からないふりをした。
「表六……さて?」
「とぼけないで。あなたの父親、ロドニーのことよ」
こういう時の彼女には冗談は通じない。アーサーは心の中でため息を吐いた。
「さあ、僕にもよくわからないんです」
「わからない?あなたは去年、どうやらシティ内に住んでいるようだと言っていたではありませんか。それっきり行方も探してないの?」
食ってかかってくるミセスをなだめるために、アーサーは噛んで含めるように言った。
「行方を探すと言ってもですね、もういい大人だし、それに認知症になるのはまだまだ先の話ですし、本人が僕らから身を隠して暮らしていきたいと思っているのなら、そうさせない理由はないわけで……」
「理由がない?理由がないですって?」ミセスの額に青筋が浮かんだ。「オリアナはどうなるの?ロドニーはオリアナの父親なのよ」
「お母さん」
ルシリアがやってきて口を出した。
「私たちなら、彼なしでも大丈夫よ。経済的にも困ってないし。オリアナも彼はブラジルに行っていると信じているし……」
「オリアナをいったいいつまでだますつもりなの?」ミセスの怒りの矛先は、娘のルシリアに向かった。「それに、彼がいなくても問題がないのなら、なぜ離婚しないの?」
「私は彼を愛しているのよ。だから、彼が自分から私たちの所に帰ってくるのを待っているだけ。離婚なんて絶対にしないから」
「お前ときたら!」ミセス・ファーガソンは派手にため息を吐いた。「27歳も年上の男と反対を押し切って結婚したかと思えば、いい年をして、紐の切れた風船みたいないい加減な夫を待ち続けるなんて、馬鹿にも程があるわ」
「馬鹿でも結構よ。お母さんには私の気持ちはわからないわ」
母娘喧嘩が勃発しそうになったのを見て、ドナルドが2人の間に割って入った。
「まあ、まあ、落ち着いて。そんなに大声を上げたら、子供たちに聞かれてしまうでしょう。ところで、お母さん、来週の土曜日にディックのホッケーチームの試合があるんです。お母さんも見に来ませんか?」
「ホッケーなんか興味はないわ!」
「そりゃそうでしょうが、地区大会の決勝なんです。これに勝ったら州大会に行けるんです。ディックもレギュラーで出るんですよ」
「ふうん。それは名誉なことね」
「しかも、サー・レッドフォードがスポンサーになって、優勝したチームには特別に商品が渡されるんです」
「へえ、どうせ大したものじゃないんでしょ」
「いやいやどうして」
ドナルドが巧みに話題をすり替えている間に、ルシリアはアーサーに手招きしてそっとその場を抜け出した。

 「本当に毎度毎度、母には不愉快な思いをさせられているわね。ごめんなさい」
人気のない、屋敷の裏側にあたる居間のテラスでルシリアは言った。
「いや、そうでもないさ。僕は割と彼女のことを気に入っているんだ」
「無理しなくていいのよ」ルシリアは弱弱しく微笑むと手すりに寄り掛かった。「ねえ、あなたも私のことを馬鹿だって思ってる? まあ、思われていたとしても私は平気なんだけど」
「正直に言えば、そう思っているよ」アーサーは率直に言った。「あんな親父と結婚したってことだけでも信じられないのに、その上、君とオリアナを置いてどこかに逐電してしまった親父をまだ愛してるなんてね」
「私は……」ルシリアは物憂げな顔で独り言のように言った。「彼と私は運命の糸で結ばれていると思っているの。笑わないでよ」
「笑わないよ」
アーサーは言葉通りに真面目な顔をしている。
「私は彼を一生愛し続けるし、彼もきっと私のことを愛してる。彼はきっと私の所に戻ってくるわ。彼……、私と結婚したことを後悔していると言ったの。僕とは早く離婚して、もっと若くて頼りになる夫を見つけなさいって。歳の問題じゃないのに……。私は彼を一目見たとき、私は一生この人と生きていきたいと思ったの。彼もきっとそうだと思うわ。ただ今は、彼はちょっと勇気が出ないだけなのよ」
「うらやましい話だな」
アーサーは防犯用の照明に照らされたほの暗い庭を見つめながら言った。
「そんな風に思える人に出会えたというのは……」
ルシリアは微笑んで彼の方を振り向いた。
「あなたもきっと出会えるわ。そんな人に」
「さあ、どうだか……」
アーサーはため息を吐いた。ルシリアやマグダや、それに友人たちの妻のように、彼が好ましいと思える女性は何人もいる。だが、ルシリアが言うほどの、運命を感じるような女性には今まで会ったことがない。一目見た瞬間、恋に落ち、この人と一生を共にしようと思うなど、そんなのは一時的な気の迷いだとずっと思ってきた。だが、ルシリアはそういうこともあるのだと言う。
――まあ、いいさ。一人でも生きていける――
運命の人に出会えないからといって、適当な女性で妥協するつもりは毛頭ない。マーサやレディ・ファリントンは気を揉むだろうが、彼女たちもそのうち諦めるだろう。そう考えたとき、アーサーは不意におかしくなった。
――何と何と、僕はかなりのロマンチストらしい……。ブラックホークの名折れだな――

 パーティーがお開きになり、アーサーは明日の朝10時にオリアナを迎えに行くとルシリアに伝えてミセス・ファーガソンの屋敷を後にした。そのまま自宅に直行しようと思ったが、途中で気が変わって会社に寄ることにした。

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7
 「エレインはねえ」
と助手席に座らせたオリアナは恍惚とした表情でさっきから同じ話をずっと繰り返している。
「とっても絵が上手なのよ。色鉛筆だけでとても素敵な絵を描くの。それにとっても美人よねえ。私あんな綺麗な人見たことないわ。ねえ、アーサーはエレインより綺麗な人を見たことある?」
「さあ、どうかな」
アーサーはエレインとミセス・フォードをアパートに送り届けてからずっと続いているオリアナのお喋りにいい加減閉口していた。静かに考え事をしたいのに、それがままならない。だが、アーサーは自分が何を考えたがっているのか、その時点ではよくわかっていなかった。
「アーサーはいいなあ。毎日エレインと会えるんでしょう?」
「確かにそうだが……。どうして君が羨ましがるのかわからないよ」
「だってー。毎日エレインの顔を見ることが出来るのよ。そしてエレインとおしゃべりが出来るのよ。最高じゃない?」
「最高……か?」
「最高よ」
オリアナはどうしてこんなに明白なことが、この28歳も歳の離れた兄は分からないのだろう、と物語っているような目でアーサーの横顔を見つめ、それからため息を吐いた。
「ねえ、またエレインに会いたいなあ。会わせてくれる?」
――会いたきゃ勝手に会えばいい。何で僕の許可がいるんだ――
という台詞をぐっと飲み込み、アーサーは可能な限り愛想のいい声で言った。
「ああ、構わない。今度君がうちに泊まりに来れる時に会ってやってくれと、ミス・ラングドンに頼んでおくよ」
アーサーはオリアナが本当に大好きだった。
「本当?嬉しい!」
歓喜のあまり運転中にオリアナから抱きつかれ、ハンドル操作を誤り、車を反対車線に乗り入れさせ、危うく対向車と正面衝突しかかっても、
「オリアナ、僕が運転している時は頼むから僕に飛びつかないでくれるかな?」
と、穏やかに言うことが出来るほど、アーサーはオリアナのことを愛していた。

 ちょうどその頃、ファリントン邸にジョー・アビントンが訪れていた。
「ファンチャルに行ったと聞いたわ」
レディ・ファリントンは優雅な椅子に優雅に腰かけてジョーにお茶とケーキを勧めた。彼女の隣には6か月になったばかりのヘンドリックを抱いたマグダが座っている。
「ファンチャル住まいをやめたわけではないのでしょう?」
不思議そうなレディ・ファリントンの問いに、ジョーは笑顔で手を振った。
「いやいや、住んでみるととても快適な所でね。メリッサは大喜びだ。ちょっとこっちで片づけなければならない用事があったんで帰ってきただけだよ。明後日にはまた戻る」
「そう。よかったわね」レディ・ファリントンは紅茶を一口飲んで、「それにしても」と言った。
「自分で作って育て上げた会社を、よくアーサーに任せる気になったわね」
それを聞いてジョーはくすくす笑った
「他人が僕のことをどう思っているのかよくわからないけどね。僕は本当は会社経営なんて好きじゃなかったんだ。十数年前からいつ手離そうかとずっと思っていた」
「そうなんですか?」
テーブルの上に座りたくて仕方がないヘンドリックを何とか宥めながらマグダが言った。
「とても意外だわ。あなたの会社はとてもうまくいっていると聞いていたから」
「まあ、それは人材に恵まれたからだな。それに、いくら嫌だからと言って、僕には数百人にもなる従業員に責任があるからね。そう簡単に放り投げるわけにもいかなかったんだ。どうしようかなあと考えているうちに、ふと気づくといつの間にかロドニーの息子のアーサーが立派になっているじゃないか。これは一石二鳥だと思って彼に白羽の矢を立てたんだ」
「一石二鳥?」
レディ・ファリントンとマグダの声が重なった。
「そうなんだ」
ジョーの目はいたずらを仕掛けようとしている少年のように輝いている。
「実は、本当に僕が彼に譲りたかったのは、会社ではなくて、僕の秘書なんだよ」
「それって……。どういう……?」
「5年前、学生時代の友人が夫人と一緒に事故で亡くなってね。僕はちょうどその時、アメリカに行っていて知らせを受けるのが遅れたんだ。彼の家を訪れたのは、葬儀が終わって2週間もした頃で、行ってみると屋敷の中はがらんとしていて、使用人が誰もいない屋敷に彼女だけがいて、もうすぐこの屋敷は競売にかけられると言った。それから渋る彼女から何とか聞き出せたところによると、彼の父親には多額の借金があったらしい。屋敷を売ってもまだかなりの借金が残り、更に母方の祖母が自分の屋敷を手離し、援助してもまだ相当な額の借金が残っていると。それで僕は彼女にシティに出てきて僕の秘書にならないかと誘ったんだ。あまり高い給料は出せないが、安定した収入があれば残りの負債はローンで返せる。本当はその残りの負債を僕が払ってもよかったんだが、そんなことを申し出ても、彼女は頑として聞き入れなかっただろう。そんな女性なんだ……」
「まあ、そうなの。それで、その女性はあなたの秘書になったのね」
「そう。とても美しい女性だ。年の頃なら、マグダ、君と同じくらいだな。とても優秀で、仕事はもちろん、細やかな心遣いも自然にできる女性だ。そんな風に容姿も気立ても申し分ない女性なのに、彼女は借金のために結婚をあきらめてしまっている」
「その気持ちよくわかるわ……」
息子のヘンドリックを連れて義母の家に遊びに来ていたマグダは、ジョーが訪れてきた時、ほんの少しだけ挨拶をするだけのつもりでヘンドリックを抱いたまま椅子に座ったが、今ではそれを後悔していた。昼寝から目覚めたばかりのヘンドリックはちっともじっとしていないし、だからと言ってここで退席するには惜しい話題に入ろうとしている。それを見て取ったレディ・ファリントンは暖炉の横の紐を引いて、執事のネイサンを呼び寄せた。
「ちょっとヘンドリックをお願いね」
マグダは義母に感謝しながら息子をネイサンの手に預けた。この頃、ようやくファリントン邸の人々に慣れてきたヘンドリックは、たとえ母親の手から離されても自由の身になりたいという気持ちが強いらしく、大人しくネイサンに抱かれて居間を出て行った。
「何とかしてやりたいと思っていたんだ。ずっと……。彼女の父親は僕の親友で、色々と返さなければならない恩もあったんだ。だからと言って、彼女の借金を肩代わりしてやることが本当に彼女のためになるのかどうか……。くよくよ考えていたら、ふと、アーサーのことを思いついてね。これは、もしかしたらと思ったんだ」
「つまり、彼女の人生のすべてをアーサーに委ねようと……?」
レディ・ファリントンの問いにジョーは首を振った。
「僕はアーサーに何も言ってない。ただ、一緒に働いていれば、そのうち、彼女の素晴らしさを理解してくれるだろうとは思う……。それが恋愛にまで発展するかどうかはわからないけどね」
「その女性の方は?彼女はアーサーを好きになるかしら」
マグダの問いにもジョーは首を振った。
「それもわからないよ。人の好みはそれぞれだからね。言うなれば、僕は一つのビーカーに違う薬品を入れてみただけだ。それで素晴らしい薬ができるか、とんでもない毒薬ができるかはまあ、お楽しみというところかな」
「毒薬になったら可愛そうだわ……」
レディイ・ファリントンが眉を顰めた。
「うん、そうならないように、僕もルーカスという目を使って見張っておくよ。あくまで彼女を幸せにすることが目的であって、彼女を不幸にするわけにはいかないからね」
「ねえ、それなら」と口を開いたマグダの瞳がキラリと光った。「私もお手伝いしたいわ」
「手伝うって?」
マグダをちらりと横目で見たレディ・ファリントンもどことなくわくわくしている様子だ。
「もちろん、その女性とアーサーの仲を取り持つのよ。うーん、そうは言っても、実際にその女性に会ってみないと何とも言えないわね。『あなたに会いに来ました』って言って会社に乗り込んでいくわけにもいかないし」
「だったら、こうしましょう」
レディ・ファリントンがパンと手を打った。
「近々、アーサーに会ってお願いしようと思ってたの。ほら、母子寮の件。彼にロバート卿の説得を頼もうと思っていたんだけど、その席にその女性……ええと、お名前は?」
「エレインだ。エレイン・ラングドン」
「そのエレインも同席させてもらいましょう」
「いい考えだわ」
義母の方を見て、マグダはにやりと笑った。
「私が彼に連絡するわ。口実も私が考える。ええと、いつがいいかしら……」
「おいおい……」
ジョーは戸惑いと期待と恐怖がごちゃ混ぜになったような顔をして言った。
「頼むから余計なことを言って、御破算にしてくれるなよ」
「まかしといて」
マグダは良家の嫁にはちょっとふさわしくないような調子で言い、そしてぐっと親指を突き出した。

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 11月に入って2回目の月曜日の朝、プライベート専用の携帯が鳴ったので取ってみると、掛けてきたのは学生時代からの友人、ウィリアム・カートライトだった。
「やあ、元気か?」
大学でドイツ文学を教えているウィリアムは仲間内では一番性格が穏やかで、いつも春の陽だまりのようにのほほんとしている。
「ああ、おかげさまで」
「会社の社長になったと風のたよりに聞いたが、どうだい?居心地は?」
「まあまあ、ってところかな」
「それは重畳」
ウィリアムは満足そうにそう言うと、急に口調を改めた。
「ところで、3人で飲まないか? 僕と君とアルの3人で、今夜あたり空いているか?」
アーサーは手帳をめくって、今日の7時以降、何の予定も入っていないのを確かめた。
「ああ、空いているが、またどうして?」
「もう1年ぐらい会ってないし……。それにちょっとアルに確認したいことがあるんだ。僕が彼に面と向かって聞くにはちょっと微妙なことなんで、君に同席してもらってそれとなく尋ねたい……ってわけでね」
「いったいなんなんだ?」
「まだはっきりとしたことは言えないけどね。なあ、アーサー。君はアルが3年前の失恋から立ち直って、今度こそ大丈夫だっていう女性と結婚できたら素晴らしいと思うだろう?」
「ああ。そうなったら心から祝福するよ」
「だろう?だから今度のことはかなり慎重を期さないとね。ということで、アルは君から誘ってくれないか?もし、彼の都合が悪かったら、都合のいい日を聞いておいてくれ。場所はいつものバーでいいだろう」
そう言うと、ウィリアムはアーサーが口を出す前に電話を切ってしまった。なにが「ということで」なのかわからなかったが、言われたとおりにアルフレッド・マンスフィールドの携帯に電話に掛ける。電話は留守電状態になっていたが、アーサーはメッセージを残さず、後で掛けなおすことにした。
 アルフレッド・マンスフィールド……。彼はパブリックスクール時代からのアーサーの友人で、現在セント・ポール病院で外科医として働いている。アーサーとウィリアムを含めた3人の中では一番生真面目で、アーサーは彼のことを「融通の利かないやつ」と言っていつも揶揄していたが、クールな外見からは伺いしれないくらいに情の厚い人間だ。その彼が3年前に恋をした。相手は同じ病院(当時働いていたのは今の病院ではなかったが)で働く看護師のキャサリンと言う女性だった。2人が付き合いはじめた経緯は聞いてはいないが、夏の頃に婚約パーティーが開かれ、その時アーサーはキャサリンに紹介された。彼女は見事なブロンドの髪とブルーの目をした人形のように綺麗な女性だったが、女嫌いを託ってはいるものの、アルフレッドよりは女性に関しては経験が豊富だったアーサーはキャサリンを一目見て不安になった。真面目であまり社交的な活動が好きではないアルフレッドにはそぐわない感じがしたのだ。パーティーの間中、彼女はしおらしく、おとなしく、控えめな態度をずっと保っていたが、アーサーは、彼女の顔に「派手なことが大好きでー、お金が大好きで―、みんなから注目されたいのー」と書いてあるような気がしてならなかった。そして、その心配はやがて現実のものになった。
 「キャサリンのことがわからなくなった」
と、秋も深まる頃、アーサーはアルフレッドから相談を受けた。結婚を半年後に延ばされたことはまあ、いいとして、居留守を使われたり、嘘をつかれたりした挙句、彼女が他の男性と付き合っているという密告書が届いたのだという。暗く落ち込んでいるアルフレッドを見て、吹っ切るためには事実を知ることが必要だ、とアーサーは彼が懇意にしている探偵を紹介した。「彼女を裏切るようで気が進まない」と、最初は躊躇ったアルフレッドも度重なるキャサリンの嘘に耐え切れなくなり、ついに意を決してキャサリンの素行調査を依頼した。結果は密告書の通りだった。彼女は病院近くのアパートとシティの繁華街近くにあるアパートの2か所で生活しており、しかも繁華街のアパートでは自称ミュージシャンという男と同棲していたのだ。
 もちろん、婚約は解消。そしてどういうわけか、アルフレッドに以前から打診があった大学での教授としての採用という話も立ち消えになり、彼は病院を移った。キャサリンの方がまったく悪びれる様子もなく、同じ病院に居続けたからだ。それ以来、アルフレッドは正真正銘の女嫌いになった。それに手を貸したのは何を隠そうアーサーだった。
 「女なんてみんなそんなもんさ」
アーサーはアルフレッドが過剰に自分を責めるのを防ぐために、すべてを女性の所為にするようにけしかけた。
「金が好きで、金のためなら何でもする。強欲で男を裏切るくらい何とも思わない。男を手玉にとって得意満面。そのくせしおらしい顔をして、本性を隠し、男の生気を吸い尽くすんだ。今回のことは高くついたが、まあ、いい授業料だ。ゆめゆめ女に心を許してはいけないってな」
 当時は早くアルフレッドに立ち直ってもらうことが先決だったし、その女性観は日頃アーサーの周囲に出没する女性たちから得られたものだから全面的に間違っているとは言い切れないが、今にして思えばやりすぎた感も否めない。とにかく、新しい病院に移ってから1月もたたないうちにアルフレッドが女嫌いであることは病院内に知れ渡り、そしてそれは今でも続いている。
 
 約束の時間より5分ほど早くウィアムに指定されたバー「アリストファネス」に着いた。近代的なビルとビルとの間に挟まれた小さなバーで、カウンターに椅子が5つと2人用のテーブルが2つしかない。馴染みのバーテンダーがアーサーの顔を見ると「お久しぶり」と笑顔で声を掛けてきた。店の中には他に客は一人もいない。ダブルのウィスキーを注文し、それを飲みながらバーテンダーと世間話をしていると、ドアが開いてアルフレッドが入ってきた。時間は7時ジャスト。相変わらず律儀な奴だ。思わずにやりと頬が緩む。
「来たか」
とアーサーが言うと、アルフレッドは彼の隣のスツールに腰を掛け
「久しぶりだな。叔父上の会社を引き受けたと聞いたが、そっちも忙しいんじゃないのか?」
と言ってきた。アルフレッドに会社のことは何も話していなかったが、大方エドワードからヘンリーに伝わった話をヘンリーから聞いたのだろう。
「まあな。今になって少々後悔している」
それを聞いてアルフレッドは眉を上げた。が、実はそんなセリフを口にしたアーサー自身が一番驚いていた。仕事は順調だ。この先上手くやっていく手ごたえもある。なのに心の底に自分は来てはならないところに来たのではないかという微かな不安というか、恐れのようなものがあるのだ。自分でもその恐れの正体が何なのか掴めていないし、自分ですら認めたくないことを他人に言うつもりもなかったが、親しい友人に久しぶりに会って気が緩んだとしか思えない。アーサーには珍しく狼狽しかかったが、それはウィリアムの登場によって救われた。
「やあ、遅れてすまん」
「僕も今来たところだ。久しぶりだな、ウィリアム」
アルフレッドの隣にウィリアムが座り、暫くの間お互いの近況を報告し合った。
「僕はさ、アルフレッドの家政婦のミセス・ディケンズが作ったきゅうりのサンドイッチのことを今でも時々思い出すんだ」
近況報告がいつの間にか思い出話になり、お互いがまだ学生で、それぞれの家に招かれようが招かれまいが押しかけてお茶とスコーンをご馳走になっていた時代の話になったところでウィリアムがそう言った。
「芸術的なほどの薄さのパンときゅうりだったなあ……。あんなサンドイッチは未だに2度とお目にかかっていないよ。ところで、彼女は元気かい?」
「いや……実は彼女は今セント・ポール病院に入院していて……」
アルフレッドはミセス・ディケンズが事故に会い、彼の勤務するセント・ポール病院に入院することになったいきさつを説明し、
「じゃあ、君は今身の回りのことはどうしてるんだい?」
とウィリアムに問われて、ヘンリーの紹介で、ある下宿屋で生活していることを語った。俯き加減で訥々と話すアルフレッドにはわからなかっただろうが、彼が話をしている間中、ウィリアムは何かを企んでいる様子でにやにや笑っている。アーサーは、なるほど、と今日ウィリアムがアルフレッドを飲みに誘い出した意味を理解し、少し彼に加勢をしてやろうと思った。
「ほお……、お前も気の毒に」
アーサーは興味深そうにアルフレッドの顔を覗き込むと言った。
「狭い、小汚い部屋に押し込められて、大した食事も出さないのに、やれ食事の時間が不規則だの、夜中に帰ってきて音を立てるな、だの文句を毎日言われているんだろう? でっぷり太った中年の女将さんにさ。可哀想に……」
演技過剰かとも思ったが、心から憐れんでいるように少し大げさに首を振って見せる。するとアルフレッドはアーサーを睨んできっぱりと言った。
「部屋は広くて綺麗で落ち着けるし、どんなに遅く帰ってきても文句を言われるどころかちゃんと食事を用意してくれる。食事は美味いし、お茶と一緒に出されるスコーンは絶品だ。それに彼女は……」
「彼女は?」
「か、彼女は……、若くて美人だ。そして優しい……」
その時のアルフレッドの表情を見て、アーサーは彼を抱きしめたくなった。アルフレッドはアーサーよりも3か月早く生まれているが、アーサーはクールなふりをしていても、実際はとても純粋でナイーブな彼のことを弟のように思ってきた。ああどうか、とアーサーは柄にもなく神に祈りたい心境だった。「今度こそ、彼の善良さに見合う素晴らしい女性を彼に与えたまえ……」

 3人の中で一番酒に弱いアルフレッドは、24時間ぶっ通しで働いていたためか、それから間もなく酔いつぶれて眠ってしまった。
「ウィリアム、どういうことだ?アルの想い人について何を知っている?」
カウンターの上に突っ伏しているアルフレッドを挟んでアーサーとウィリアムは小声で話し合った。
「実は、彼女は……、ステラというんだが、僕の名付け親の妻だった人だ。名付け親は2年前に亡くなって……、それで彼女は未亡人のミセス・ギルバートとなったわけだ」
「ほう……」
ウィリアムの名付け親なら、アーサーの父親と同じくらいの年齢だろう。そんな男性とまだ20代の女性との結婚は決して珍しいものではなかったが、27歳年下のルシリアと結婚した父親を持つアーサーは驚く気にはなれなかった。
「名付け親が亡くなる前、僕は彼に彼女のことをよろしく頼むと言われている。いい男性がいたら、自分のことは忘れてその人と早く一緒になるように計らってくれと」
「それがアルなんだな?」
「ああ、実は昨日ステラと会って、彼女の下宿屋にアルが厄介になっていると聞いて仰天してね。で、話を聞いていると、どうも彼女はアルのことを憎からず思っているみたいなんだ。じゃあ、アルの方はどうなんだろうと思って、今日はそれを探るために君に協力してもらったわけだ」
「で?」
「どんぴしゃだ。間違いない」
ウィリアムは両手をこすり合わせながらほくそ笑んだ。
「とても素敵な女性なんだ。落ち着いていて優しくて、彼女の容姿や学歴から考えたら地味すぎるくらい地味で……。本当にアルにはぴったりだ。キャサリンとは真逆の女性だよ。彼女がギデオンと結婚してからずっと彼女を見てきたが、彼女の人柄に関しては僕が保証する。絶対だ」
「お前がそれほどはっきり言うんだから、間違いはないだろう……。ただ問題は……」
アーサーはすうすうと寝息を立てているアルフレッドを見下ろした。
「そう、問題は」と、ウィリアムはアーサーの台詞を引き継いだ。「アルが過去の失恋の痛手からどう立ち直るか、だな」

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